第2次世界大戦終結70年 庶民にとっての戦争① 「隣組」でがんじがらめ
戦後70年の節目の今年、安倍政権が「海外で戦争する国づくり」に暴走するなか、「庶民にとっての戦争とは、何だったのか」を考えます。
図書館に通いつめ、青森県の地方紙「東奥日報」の1930年以降の記事に目を通し、庶民と戦争との関わりを『あの時、青森県でなにが起っていたのか』(2012年6月)という本にまとめた人がいます。京都市の飯田美苗さん(77)です。
この本からは、庶民がひたひたと戦争への道に巻きこまれていったようすが浮かびあがってきます。
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飯田美苗さん
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「東奥日報」記事から戦争中の庶民の生活を見た『あの時、青森県でなにが起っていたのか』
連帯責任で統制
「戦争中、あらゆるものが戦争と結び付けられていきました。その一つが『隣組』です」と話す飯田さん。
隣組は「隣保団結ノ精神二基キ…地方共同ノ任務ヲ遂行セシムル為」として1940年に制度化。隣近所で防空・防火・防ちょう、食糧や生活物資の配給、住民動員や物資供出の連帯責任を負わせ、住民同士を監視させる役割を果たしました。
飯田さんは、「隣組単位で配給が行われていたため、防火訓練に参加しなかったり、空襲で火が上がっても消火せずに逃げたりすれば、食糧ももらえなくなる。庶民は相互監視でがんじがらめに戦争体制に組み込まれていたわけです」と話します。
『あの時~』によると、隣組の記事が載り始めるのは制度化された40年ごろから。「超非常時だ、明日を計られない世界情勢だ…防火用の井戸掘り作業を開始」「弘前の魚配給、各隣組で共同購入」「川原の廃地開墾…弘前浜町隣組共同耕作」など隣組に関する記事が紙上に躍りました。隣組単位で防空訓練が行われる一方、物資統制により日用必需品の配給制が進められていったのです。
資源調達の面でも統制を強め、無謀な戦争に突き進んでいった様子がみてとれます。
供出で並木喪失
『あの時~』でも、木造船増産が呼び掛けられ、「お寺の老杉」「鎮守の杜(もり)も屋敷の木」も「並木の松」も「墓地の杉立木」も献木運動にまき込まれていったことを紹介。「本県は二万七千本を突破」と青森県の成果を誇る記事もありました。
「そのために昔からの並木道が失われた地域もありました。お寺の釣り鐘が徴収されたのは有名ですが、鉄くずを拾い集める女の子が表彰された話題が記事になりました。とんでもない時代でした」
京都市出身の飯田さんは大学卒業後、結婚で青森市に移り住み、県庁などで働きました。飯田さんが、戦前、社会全体がどのように戦争体制にくみ込まれていったのか、その中で青森県に生きた女性たちがどう暮らしていたのか聞き書きを行うようになったのは97年に改定された「日米軍事協力の指針」がきっかけでした。アメリカがアジア・太平洋地域で軍事介入をおこせば、「周辺事態」を名目に、日本が自動的に参戦する仕組みがつくられたことに、「じっとしていることができなかった」のです。
今また、安倍政権が戦争法案成立へ暴走を続けるなか、飯田さんは「あの時代と異なり、圧倒的な国民が安倍内閣と同調勢力のもくろみの危険に気づき廃案のために力を尽くしています」と希望を感じています。
(釘丸晶)(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2015年7月20日付掲載
「とんとんとんからりと、となりぐみ♪♪」という歌があるように、庶民の生活に染み渡っていました。
一旦戦争が起これば、軍事費が増え、庶民の生活が真っ先に犠牲になります。
戦後70年の節目の今年、安倍政権が「海外で戦争する国づくり」に暴走するなか、「庶民にとっての戦争とは、何だったのか」を考えます。
図書館に通いつめ、青森県の地方紙「東奥日報」の1930年以降の記事に目を通し、庶民と戦争との関わりを『あの時、青森県でなにが起っていたのか』(2012年6月)という本にまとめた人がいます。京都市の飯田美苗さん(77)です。
この本からは、庶民がひたひたと戦争への道に巻きこまれていったようすが浮かびあがってきます。

飯田美苗さん

「東奥日報」記事から戦争中の庶民の生活を見た『あの時、青森県でなにが起っていたのか』
連帯責任で統制
「戦争中、あらゆるものが戦争と結び付けられていきました。その一つが『隣組』です」と話す飯田さん。
隣組は「隣保団結ノ精神二基キ…地方共同ノ任務ヲ遂行セシムル為」として1940年に制度化。隣近所で防空・防火・防ちょう、食糧や生活物資の配給、住民動員や物資供出の連帯責任を負わせ、住民同士を監視させる役割を果たしました。
飯田さんは、「隣組単位で配給が行われていたため、防火訓練に参加しなかったり、空襲で火が上がっても消火せずに逃げたりすれば、食糧ももらえなくなる。庶民は相互監視でがんじがらめに戦争体制に組み込まれていたわけです」と話します。
『あの時~』によると、隣組の記事が載り始めるのは制度化された40年ごろから。「超非常時だ、明日を計られない世界情勢だ…防火用の井戸掘り作業を開始」「弘前の魚配給、各隣組で共同購入」「川原の廃地開墾…弘前浜町隣組共同耕作」など隣組に関する記事が紙上に躍りました。隣組単位で防空訓練が行われる一方、物資統制により日用必需品の配給制が進められていったのです。
資源調達の面でも統制を強め、無謀な戦争に突き進んでいった様子がみてとれます。
供出で並木喪失
『あの時~』でも、木造船増産が呼び掛けられ、「お寺の老杉」「鎮守の杜(もり)も屋敷の木」も「並木の松」も「墓地の杉立木」も献木運動にまき込まれていったことを紹介。「本県は二万七千本を突破」と青森県の成果を誇る記事もありました。
「そのために昔からの並木道が失われた地域もありました。お寺の釣り鐘が徴収されたのは有名ですが、鉄くずを拾い集める女の子が表彰された話題が記事になりました。とんでもない時代でした」
京都市出身の飯田さんは大学卒業後、結婚で青森市に移り住み、県庁などで働きました。飯田さんが、戦前、社会全体がどのように戦争体制にくみ込まれていったのか、その中で青森県に生きた女性たちがどう暮らしていたのか聞き書きを行うようになったのは97年に改定された「日米軍事協力の指針」がきっかけでした。アメリカがアジア・太平洋地域で軍事介入をおこせば、「周辺事態」を名目に、日本が自動的に参戦する仕組みがつくられたことに、「じっとしていることができなかった」のです。
今また、安倍政権が戦争法案成立へ暴走を続けるなか、飯田さんは「あの時代と異なり、圧倒的な国民が安倍内閣と同調勢力のもくろみの危険に気づき廃案のために力を尽くしています」と希望を感じています。
(釘丸晶)(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2015年7月20日付掲載
「とんとんとんからりと、となりぐみ♪♪」という歌があるように、庶民の生活に染み渡っていました。
一旦戦争が起これば、軍事費が増え、庶民の生活が真っ先に犠牲になります。